洗馬(せば)宿

 中山道、江戸から31番目の宿場です。洗馬を「せば」と読むのは県外の人間には難しいですね。切符購入時、JRの駅員から読み方を聞かれました。地名の由来は街道から少し北上したところにある「太田(おおだ)の清水」にあります。その昔、木曽義仲の軍勢に今井兼遠がここで出会った。即ち「あうた」ので太田になり、義仲の愛馬の足を洗ったことから「洗馬」となったと言います。この街道、徳川家康に代表される江戸幕府関係者より木曽義仲や武田信玄の伝説の方が多く登場します。
 この「太田の清水」は2ヶ所あるそうですが、ここではどっちが本家かは追及せず先を急ぎます。
【注意】
 洗馬の名はすでに平安期の記録に記されているそうで、義仲の馬にまつわる言われは後につくられたもの。


2.洗馬宿の中心部

本陣跡

3.なぜか水準点に花が浮かんでいた
 本陣跡は善光寺方面とは逆方向に100m程度行った左にあります。宿場全体は往時の方が賑わっていたのではないかと思います。
 本陣跡から中山道を江戸方面へ400m程度北へ行くと、善光寺西街道の起点である追分に至ります。


4.正面が追分

5.道標
「右中山道」、左面には「左北国往還 善光寺道」と彫られています。またここには道祖神などが多く集められています。
 善光寺はここからおよそ十九里(約75km)と言われています。

 中央が追分で、右は中山道(江戸方面)、左が善光寺西街道、往時は「信濃の分去(わかさ)れ」ともよばれていました。
『善光寺道を50m行くと常夜灯のある枡形にいたる。ここが中山道と善光寺道のわかされであった。道標は昭和7年(1932)4月6日の「洗馬の大火」以降右側の新道が開通したおりに枡形からここへ移されたものである』 (案内板のまま)
 この大火で200軒ほどの家が消失したため宿場街の面影もそのとき消えてしまったらしい。?p>

 左道をとり、善光寺へはひたすら北上することになります。全面舗装されていますがやっと離合できる程度の道幅で、歩行者もいないため車に気を付けて歩きましょう。約8km先の国道19号に合流するまでは一本道で迷うことはないでしょう。


6.北アルプスを望む
中央は常念岳、右の外れは鹿島槍ヶ岳などの後立山連峰
 善光寺街道からも北アルプスは見えますが、道をそれて後立山連峰(大町市方面)を望むのもお薦め。このあたりは桔梗ヶ原と言い、天文十四年(1545)武田信玄が小笠原長時を破った古戦場がこのあたりらしい。有名な塩尻峠の戦いはこの3年後で小笠原氏はまたも大敗して一時滅亡した。

 ちょっと短いが「信濃の分去れ」から約3.1km地点に「大田一里塚跡」の案内柱があります。もしかすると洗馬本陣から一里かもしれません。善光寺まではまだ18里あります。


7.土蔵が残る

8.ブドウ畑に一里塚跡の標柱

拡大地図

善光寺西街道
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