5. 東海道 戸塚とつか宿
江戸へ  10里18町(41.2km) ← 保土ヶ谷宿 2里9町(8.8km) → 藤沢宿 2里(7.9km)
<江戸時代(天保年間[1843年])頃のようす>
 両側は家並で、余地は並木である。田と畑の割合は同じで、堀の水を使っているが、この水は汚く灌漑用にしか使えない。
 農業の他、旅籠屋は旅人の休泊、飲食を供する茶店があり、その他の商人もいる。
 五穀の他に作物はなく、市が立つこともない。
 宿場の男は縄・むしろをおり、女は糸をとり機を織る。その他の手作業はない。
 米の津出し神奈川宿川嶋河岸へ3里半、ここから江戸へ海上およそ10里程。
 鷹を訓練するための御捉飼場(おとりかえば)がある。
 この地の一帯は平地で山坂はなく、見渡す山々もない。
  国・郡   相模国鎌倉郡
管轄 築山茂門左衛門代官所
合高 2326石6斗2升2合
町並 東西 20町
  尺貫法換算
家数 613 軒
人口計 2,906 人
男女 男 1,397、女 1,509
本陣 脇本陣 本陣 2、脇本陣 3
旅籠屋 大 4 中 20 小 31 計 75軒
 江戸時代の旅人の歩く距離は10里/日で戸塚宿は1泊目の宿となることが多く、「東海道中膝栗毛」の弥次郎兵衛と喜多八も戸塚で泊まっています。
 戸塚の由来は「富塚」「十塚」「豊塚」という三つの由来があります。
 富塚八幡(戸塚町)の縁起には、平安時代の後期、戸塚修六郎友晴及びその子孫がこの地の開発に努力したので「戸塚」と呼ぶようになったとしるされています。


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