保土ヶ谷オープンヘリテイジ

ホーム » オープンヘリテイジ » 見どころポイント一覧

見どころポイント一覧

建築物の概要

 金沢横丁道標四基

天明3(1783)年
天和2(1682)年
文化11(1814)年
弘化2(1845)年

  この地は、旧東海道と金沢・ 浦賀往還「かなさわかまくら道」の交差点で金沢への出入口にあたるため通称「金沢横丁」と呼ばれた。 金沢・浦賀往還には、弘明寺、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、道標として四基が建立され現在も残っている。

 保土ケ谷本陣跡

主屋:大正14年建築/木造平屋建
洋館付き住宅
門:不明/木造平屋建 冠木門
蔵:大正12年建築/鉄筋コンクリート造2階建土蔵風

  旧東海道保土ヶ谷宿において大名等の宿泊、休憩場所である保土ヶ谷本陣を代々運営してきた軽部家の本陣跡に建つ建物。主屋・門・蔵が残る。

 旅籠本金子屋跡

江戸末期~明治初期建築・推定/木造2階建
旅籠(旅館)建築

  保土ヶ谷宿の旅籠として残る建物。本金子屋は保土ヶ谷宿の平旅籠として明治18年まで営業していたが、明治20年の国鉄東海道線の開通に伴い、宿場の機能が徐々に失われてゆき廃業したと伝えられる。

 復原した一里塚と松並木・上方見附

平成17年復元
一里塚/松並木/上方見附

  平成17年12月、横浜市の事業である第1回「ヨコハマ市民まち普請事業」に選ばれ、平成19年2月、市民の手で一里塚と松並木が復元された。

 元町の街なみ


 江戸初期(慶安元年(1648年)頃)に幕府の命によって保土ケ谷宿が現在の保土ケ谷町方面に整備された際、元町の住民が保土ケ谷町へ移されたと伝えられる。昭和30年代までは茅葺の民家が立ち並ぶ江戸時代さながらの懐かしい街なみが残っていた。

 旧権太坂


 江戸日本橋を出発して京都へ向かう旧東海道の道のりで、保土ケ谷宿までは平坦であったが、元町から武蔵国と相模国の国境のある境木までの急坂は旅人にとって最初の難所であった。かつては道の両側に松並木が広がり昭和の初めごろまではその景観を残していたと云う。また、現在の花見台から元町橋に至る坂道は、江戸時代以前の古東海道の「神奈川坂」であったという説が伝えられる。

 境木武相国境


 旧東海道と武蔵国と相模国の国境(武相国境)が交わる地にかつて道標杭があったとされることから「境木」の地名が名付けられたとされる。権太坂を登り切った所の景色の良いこの地には茶屋があり、かつての旅人は名物の牡丹餅を食べながら疲れを癒したと伝えられる。

 東洋電機製造跡・日本金属工業跡

東洋電機製造: 大正7(1918)年~不詳
日本金属工業:昭和7(1932)年~不詳

 東洋電機製造
 大正7(1918)年設立。当時、機械類はほとんど英・独・米からの輸入品で、第一次世界大戦後は輸入物資がままならず、鉄道車両用電気機器の国産化の使命を帯びて設立され、電車のモーターを国産化した企業である。製品の車両を移動させる引込線が保土ケ谷駅に直結して今も残されている。
日本金属工業
 昭和7(1932)年、ステンレス鋼の製造を目的として設立。日本初のステンレスの製造を手がけた。工場跡地の高層住宅団地の入口の植え込みに「ステンレス鋼発祥の地」の記念碑がある。

 旧帷子橋跡

市登録地域史跡名勝天然記念物
[平成10(2008)年11 月]

  広重など保土ヶ谷宿を描く多くの浮世絵に描かれている帷子橋。昭和39 年の帷子川の改修以前に掛っていた帷子橋が現在の天王町駅前公園にモニュメントとして復元されている。

 橘樹神社


 文治2年(1186)創建と伝えられる。大正10年(1921)に橘樹神社と改称。大東亜戦争後、隣接していた神明社を境内社としました。

 天王町商店街


 天王町」の町名は、橘樹神社の旧名「牛頭天王社」から名付けられたと云われている。戦前は富士瓦斯紡績の表門からまっすぐ伸びる通りに沿った商業地として工場と共に発展したことから「紡績前通り」又は「表門通り」と呼ばれていた。家具店や映画館などが立ち並び、地域住民や工場労働者の生活必需品を揃える保土ケ谷を代表する商店街として大いに賑わった。

 水道道跡

明治20(1887)年
  明治20(1887)年に敷設された近代水道の遺構、水道道(すいどうみち)と呼ばれる。津久井の水源から西谷-星川-天王町-藤棚-西戸部を通り43 キロに渡り関内の横浜居留地まで給水され、日本初の近代水道の第一歩を創った。この通りは戦前「保土ケ谷座」などの映画館も多く建ち並び大変賑わいを見せていた。

 富士瓦斯紡績跡

明治36(1903)年~昭和20(1945)年
  明治36(1903)年に設立され、1920 年(大正9 年)頃に最盛期を迎え、従業員6,000名を超える世界最大級の生産量を誇る製糸工場として稼働した。昭和20(1945)年の空襲で操業停止し、戦後は米軍に接収。自家発電を行い、周辺の工場に余剰電力を供給していた。工場の表門周辺は現在はイオン天王町店の店舗入口となっている。
 富士瓦斯紡績で働く女工などの日常の生活必需品をすべて揃えていたのが、表門から延びる現在の天王町商店街(通称「シルクロード天王町」)の起源といわれている。天王町商店街のメインストリートは、現在でも「表門通り」と呼ばれ地域の歴史を偲ばせている。

 程谷曹達(保土ケ谷化学)跡

大正5(1916)年~昭和48(1973)年
  大正5(1916)年、程谷曹達(株)創設。昭和9(1934)年、傍系の東洋曹達と合併し、総合化学メーカーとして昭和14(1939)年に保土谷化学工業と改称した。昭和48(1973)年には工場を郡山に移転させた。

 大日本麦酒(日本硝子)跡

明治40(1907)年~昭和60(1985)年
  元は東京麦酒という会社が明治28(1895)年に保土ケ谷の神戸(ごうど)に進出し、明治40(1907)年にビール会社の大手である大日本麦酒に買収され、ビールと清涼飲料水を製造したことに始まる。工場敷地南側から月見台へ続く急坂は、この工場にちなんで「ビール坂」の愛称で呼ばれている。
 大正5(1916)年に隣地に日本硝子工業保土ケ谷工場が設立され、両者は合併、分離を繰り返すが、戦後は「日本硝子」として専ら瓶の製造に特化する。日本硝子は昭和60(1985)に閉鎖、その跡地は、横浜ビシネスパーク、保土ケ谷スポーツセンターなどとして活用されている。

 古河電池跡

昭和12(1937)年~昭和61(1986)年
  古河電気工業(株)が事業拡大にあたり、電池製作部門を関東に進出すべく、保土ケ谷に工場を建てたのが昭和12 年であった。
 昭和25年に蓄電池部門が分離独立して「古河電池(株)」となる。
 昭和61年にいわき市、今市市に工場移転し、跡地は高層マンション、いなげや、星川中央公園として活用されている。

 杉浦邸


  平屋建、中廊下式の洋館付き住宅で外観は全洋館様式である。モダンな平屋建ての洋風意匠と庭が昭和初期の月見台の住宅地景観を偲ばせる住宅である。

 井澤邸

昭和11年建築/木造2階建
洋館付き住宅

  昭和60年までは内科・小児科の町医者「井澤医院」として営業。洋館部分を待合室として使用しており、地域に親しまれてきた建物。洋館を囲んで後年に増築2階建てとなり、最も目立つ敷地角にランドマークとして洋館部分を見せている。

 保土ケ谷カトリック教会

昭和13年建築/木造平屋建
教会建築

  パリ外国宣教会フランス人のシェレル神父が私財を投じフランスからステンドグラスなどを取り寄せて建てた教会であると伝えられている。様式はロマネスク風であり、外壁をモルタル塗りで仕上げた質素な意匠で、細かいところまで手の込んだ美しい建物である。チェコ出身の建築家J.J.スワガーによる設計と言われている。

 入澤邸

昭和9年建築/木造平屋建て
洋館付き住宅

  洋館は切妻を正面に見せず横向きとした配置が珍しい。洋館の屋根は施釉フランス瓦葺き。広縁の天井には戦時中の焼夷弾の跡が残る。

 小菅邸

昭和6年建築/木造平屋建て
洋館付き住宅

  昭和9年子供の就学を機に、南区の六ッ川より現地に移築した珍しい経歴を持つ建物。近年外部を改修した。屋根は切妻と入母屋の複合型。

 斎藤邸

昭和9年建築/木造2階建
洋館付き住宅

  上げ下げ窓の出窓、窓の桟組がレトロで結霜硝子とダイヤ硝子でパターン化されている点が見どころ。洋間は6帖で天井壁共に漆喰仕上げ。築80年経つが狂いもほとんど無く、大工や左官職人が腕を振るった傑作建築である。

 村井邸

大正14年建築
木造平屋建/洋館付き住宅

  保土ケ谷区に残る洋館付き住宅としては最も古いものの一つで、外観や内部の造りも秀逸であることに加え、材料も非常に良質である。
 間取りは典型的な「中廊下式住宅」であり、外観は建物全体を南京下見板張りで覆い洋風の作りとしている。当洋館部分の屋根は切妻の上に小さな寄棟が載る「半切妻」屋根で、軒部分には珍しいハンマービーム風の意匠があしらわれている。

 中島邸

大正13年建築/木造平屋建
洋館付き住宅

  昭和28年頃増改築して平成17年頃まで旅館業を営んでいた。洋間は3帖、元は玄関踏込より直接入り、洋間の続き部屋とは段差が付いた土間を設えたユニークな洋館であった。

 東隧道

昭和5(1930)年
馬蹄型トンネル
市認定歴史的建造物
[平成12(2000)年11 月]

  関東大震災復興の際、磯子、岡村、蒔田、大岡方面の配水強化を図るために、保土ケ谷町と南太田町を連絡する道路用トンネルと兼用で計画・整備された。外観表面は、梁とトスカナ式の柱部に花開岩、その他はフランス積レンガを張ることにより、梁、柱の構造的なデザインを明確にした優れた意匠となっている。

 大原隧道

昭和3(1928)年
馬蹄型トンネル
市認定歴史的建造物[平成12(2000)年11 月]

  関東大震災復興の際、東隧道とあわせて整備・計画された。当初は管理用だったが、現在は歩行者用通路としても利用されている。

 北向地蔵

享保2(1717) 年
市登録地域有形民俗文化財
[平成元(1989)年12 月]

  修繕の時などに地蔵の向きを変えても、いつの間にか北向きに戻っているので「北向地蔵」と呼ばれるようになったそうである。ここは「かなさわかまくら道」の分岐点であり、地蔵の角柱には「是より左の方かなさわ道」「是より右の方くめう寺道」と刻まれ、金沢方面と弘明寺方面への道案内も兼ねていた。

 御所台の井戸

市登録地域史跡名勝天然記念物
[平成3(1991)年11 月]

 「かなさわかまくら道」その途中の急な坂道(いわな坂)沿いのひっそりとした一角が政子の井戸とも呼ばれる「御所台( ごしょだい) の井戸」である。政子とは、頼朝の妻で、頼朝の死後に実質的に将軍の仕事を行い「尼将軍」と呼ばれた北条政子のこと。この井戸の水を政子が化粧に使ったという言い伝えがあり、この一帯が政子の所領する土地だったのではないかという説もある。

 楢崎邸


  旧東海道保土ケ谷宿沿道に唯一残る町屋(商家)の建物。米屋として昭和15 年頃まで営業していた。伝統的商家造りである。前面道路は楢崎邸側は江戸時代の旧東海道の時代の道路境界線がほぼ現在も変わっていないことが知られており、旧宿場通りの歴史的景観を偲ばせる歴史的建物として貴重である

 大仙寺(本堂・山門)

元禄14年(1701年)推定
木造平屋建/寺院建築

  高野山真言宗の寺院。かつては旧東海道(現在の国道1号)まで参道が通じていたが、明治19年に参道を国鉄が横切る形で開通し現在は踏切が設置されている。

 帷子会館

大正初期建築/木造平屋建/近代洋風
  当初は消防署の消防車を収納していた建物。現在は町内会館として利用されている。扉や窓は後に改修されたものだが、大正期の建物として旧東海道沿いに残る稀有な洋風建物である。歴史的建造物の良い保存活用例といえる。